NORI NOTE

6/9 ちょっとキャンプしてくる   
っていうかんじでキャンプができるようになりつつあります。なりつつです。装備や技術や心意気もまだまだ。土曜日に午前中水彩のワークショップをして、午後コーポ住宅の講演会に参加して、夕方からさあ行くぞと準備して、即出発。宮島の向こう側の浜辺へ。トイレしかなくて水についてはちょっと不便だけど、いいところでした。草や樹木の繁りかたがとってもよかった。夜、蚊がたくさん出てきて耳元でうるさいうるさい。おもわず頬や耳をぺしぺし叩いていたのが、変な角度で眼鏡をかけていたせいで眼鏡にぱしっと手が当たり、なんとフレームが折れてしまった。おかげできょうは別世界にいるよう。南国の島のようなシチュエーションで砂浜に寝ころんでいると、我を忘れ、周りのことも忘れ、まさに忘我の境地。でもちょっと離れたところにいる人のことが全然わからない。知ってるかも知れないのに、知らない振りをしなけりゃならない。自然の中にいると別に見えなくてもあまり不自由はないのに、やっぱり対人に関して見えていないことが結構辛かったですね。いかに人の顔を見て暮らしているか。顔色をうかがっているか。それにしてもあの浜はご贔屓にしよう。週末小屋でも建てたいくらいだ。


6/2 肉体労働のテンション   


現代美術館で、大竹伸朗氏の話を聞く。18歳の時の牧場で働いた話から(まあそれは今度出版された「18」という彼の作品集に絡む話だけど)サッカーの話(にわかワールドカップファンはきらいじゃ)やら、彼の好きな作家(シュバルにゾンネンシュターン)や人間(どりゃーおじさんや白鳥なんとかっていう脱獄名人)についてやら、話はとりとめもなく続いていく。予定調和でない、目的がどこにあるかわからない、それでも真摯に自分の理想郷目指してこつこつもくもくやる人が、やる事がすきなんだろうな。そこではアーティストと呼ばれることには何の価値もない。ただ穴を掘り続けるがごとく、絵を描き続けたり、石を積み続けたりする。そういう人で私はありたい、と大竹氏は思っているのだろうか。現代美術業界にしっかりと足跡を残している大竹氏がそう思っている。
でもそれらは西洋美術史的な正当な美術に対するアウトサイダーアートとして存在を見いだされ、結局その位置づけを離れられない。そしてそれは美術サイドにいる他者としての眼が捉えた、やっぱり予定調和的な世界なのではないか。本当に足下をひっくり返されるようなことに、その価値を認めることが、果たしてできるか。どこかに線引きを誰かがするということ。よのなかのすべてがアートなのではない。
今日が最終日のここの企画展の奈良美智展は、若い女性で大変賑わっていたけれど、これはアートなのではなく商業主義的なお祭りだと、わたしは線引きする。
10年ぐらい前に、横浜のNICAFというこれまた美術業界のお祭り的イベントで、ある画廊ブースに佇む大竹氏を見かけたことがあった。ミーハー的に「あ、大竹伸朗だ」と反応したのだけど、その表情というか容姿が、なんだか孤独な天使のようで、透き通った寂しい空気と共に存在していて、どきんとしたのだ。そういうオーラを出す人なんだと、ずっと気になっていたので、今回確かめにきたのだけど。飲み屋で「やっぱさあ」を繰り返し、時々熱くなってつのる想いを語り続けるお兄ちゃんのようなおじさん(ていう歳だよね)だった。ただ作品にはね、あの時感じた空気感は確かにあった。「18」の写真には、それが色濃かったし、宇和島駅のネオンサインなんかも、大竹伸朗の寂然が見えてくるような気がしたし。でも、牧場で肉体労働してぼろぼろになって、かたわらなぜだか写真を撮り続けスケッチをしている(なぜそんな写真を撮ったのか全然記憶がないらしい)サングラスしていない18歳の大竹氏に会ってもみたかった。


5/26 貝掘りは極めました。   
広島県立美術館でやっている写真展に併せて開催された、水越武氏の講演会に行きました。昔お会いしたときと変わらぬ印象。浮世離れしているというか、我が道を完全に行っちゃっているというか。有名な写真家然としてないというか。スライドを観ながら、光と影としての穂高やら、生きていける極限のところで命からがらに生きつないでいる樹木やら、春先の萌葱色の美しいブナの木々やら、そこには人間の匂いすらなく、自然のみが存在する。水越さんの内には、それだけの雄大な自然と対峙できるほどのなにかがあるはずなのだ。あの瞳の奥には、底なしの茫漠とした世界が拡がっているのだろう。
林家の面々は、その後ささやかにアサリ掘りにいって、内なる自然への欲求を満足させるのであった。今回も大漁。


5/19 びゅわーんびゅわーんとは・し・る   
KとTがお留守番するというので、速攻で家をでて新幹線に飛び乗り福山へ。懐かしい0系こだま号に乗って、車窓を流れる風景を見ながら、思いきり浸っていました。数々の美しい青春の日々。人生のターニングポイントって奴ですか、そんなとき、いつも新幹線に一人乗ってどこかへ向かっていたものです。何年かぶりにひとりで新幹線に乗っている私が、どの時点での私なのか、見失ってしまいそうなくらいでした。
ふくやま美術館のAFRO-BURRI-FONTANA展。こんなに質のいい抽象画、人もすごく少ないし観る気満々。それで中高生ぐらいが対象の美術「鑑賞」プログラムをやってみることにしました。オーディオガイドを聞きながら、指定されている絵(8点ぐらいだったかな)をワークシートに模写して特徴や感想を書き込みます。はじめてだった抽象画を模写するの。フォンタナなんて、模写することに何の意味があるかーってかんじですが、それでも結構楽しめました。だって真剣に観るものね。再現しようとすると。結局全部やることは同じだったので、最後は疲れて描く気が失せましたが。しかしフォンタナ、ヨカッタわあ。高校の修学旅行の倉敷、大原美術館で最初に出会ったフォンタナが、わたしの抽象的絵画初体験。こんなものがあるのかという鮮烈な印象が、たぶん現在のわたしのところまで引っ張ってきたのだと思うもの。それにしてもあのナイフでキャンバスを切り開くこと。しつこいくらいにいろんなパターンでやってたんですね。一回芸ってかんじなのかと思ってたのに、意外。キャンバスを染めたむらむらの動きのある色彩の中に、ぼそぼそ切れ味の悪いナイフでおもむろにカットされたものなんか、とても情緒的だった。色もセンスいいなあ、さすがイタリアの伊達男ってかんじ。
ところで、「すぐれたワークシートはホームページ上にのります」ってかいてあったので、もって帰ってもいいですよ、といわれたけど置いていくことにしました。で、うふふ載ってます。ふくやま美術館のホームページに。中学生や高校生の名前がずらーと載っている一番最後に「某学校 林典子」って。


5/15 ひとはこ千円   
安佐南区の西村ジョイに行く。本箱を頼まれたのだけど、合板でただの箱を作って並べる本箱にしようと思い、板を買ってカットしてもらう。300×400×300ぐらいの箱。6個並べて子供用本箱に。
それで初めて行った西村ジョイ。びっくりしました。これぞDIYなホームセンター。ここのもので家が一軒出来上がる。雨で仕事が休みの大工のような人がたくさん買い物していました。材料から作業服から、たよりにしてるぜにしむらじょい。ってかんじの職人御用達店。でもなんかちょっと安易な御用達な気もするのですが…。それでもちょっと創作意欲をくすぐられるのでした。
それで箱。無塗装のそっけないやつですが、たくさん作って並べて並べて増殖する収納箱ってかんじでやろうかなとか、ていねいに塗装して、額縁代わりに祭壇代わりに、大事なものやお気に入りのものを並べてもらう心のよりどころ箱なんてのはどうかとか、いろいろ想いは拡がっています。無塗装状態でひとはこ千円。インプレイスの商品にしよう。あなたもいかが?

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