林家雑記

text:林典子
photo:林健次郎
   



この林家雑記は、1995年自宅出版したもの。
出版部数は50部。


わが家耳1耳2寝起き身繕い風呂

  ご近所好物一好物二ハエ百合引っ越し


わが家

街のはずれをとろとろと流れていく、あさくら川の土手に沿って、新しい白い家がぽつぽつと建ち並ぶ。きれいに草を刈ってアスファルトで覆い、若い家族のための清潔そうな家が次々に建てられ、このあたりはやがて新しい住宅街になる。、、、

朝の光が部屋に差し込み、Kは眩しくて目が覚めてしまうという。この部屋の窓にはカーテンがない。布が垂れている様子が嫌いなのだというKの選択である。ひらひらしたものが嫌いなのか、閉所恐怖症なのか、ただのめんどくさがりか。、、、

耳 1

壁の向こうには、ゆみこちゃんとしんいち君という兄弟が住んでいる(らしい)。夕方学校から帰ってくると、決まっておかあさんに「片づけなさい」と叱られる。そして次に「お風呂に入りなさい」と叱られる。、、、

耳 2

窓から見えるあの壁から、毎日夕暮れ時に聞こえてくる声がある。男の人の声だ。誰かを相手に話しているのかもしれないが、聞こえてくるのは彼の声だけ。大きな声で、乱暴な喋り方。、、、

寝起き

わたしは寝起きがたいそう悪い。布団をめくって身を起こすことが、この世の終わりのように思える。もしそうであるならば、この世の終わりまでずっとずっと眠っていたほうがいい。毎日毎日、体を横たえ眠りをむさぼる怠惰な動物の身から

身繕い

Kは何はともあれ、まず耳かきを手にする。新聞や雑誌を読むのが、彼の一日の中のわずかなくつろいだ時間なのだが、活字を目で追う間中、耳かきを同時に行っている。家に帰ってくるなり新聞を広げ、「耳かきは?」と聞く。

風呂

お風呂の電球が切れた。真っ暗の中で入らなくてはならない。身体を洗うのに困るので、入口に白熱灯の小さな照明を置くことにする。ぼんやりと薄暗がりに湯気が漂い、どこかの温泉宿のようだ。

ご近所

外へ出かけるためには、この長屋街の大通りを突破しなくてはならない。この大通りは、鉢植えの花がはみ出し、洗濯機がはみ出し、子供の足こぎ車がはみ出し、乳母車に乗った赤ん坊がはみ出し、しゃがみ込むばあちゃんがはみ出している。

好物 1

独身時代の名残で、Kは仕事帰りにコンビニに寄って帰ってくるのが好きらしい。夜の中でこうこうと明るい場所に何となく心惹かれるのは、寂しい一人暮らしの癖のようなもので、なかなか抜けないものらしい。

好物 2

漠然とした欲求不満状態で一日を過ごしてしまった。ただ寝起きが悪かったとか、天気が悪いとか、単に気分の問題なのだが、こういう精神状態はちょっと危ない。変なものに引っかかりやすい。主婦稼業も、何時も平穏無事だとは限らないのだ。

ハエ

今日はずっと二匹のハエがわたしにつきまとっている。窓際に座っても、台所に立っても、どこにいてもわたしのまわりを飛んでいる。うるさくてしょうがないけどじっと我慢している。なぜならこれは、仕返しを受けているに違いないのだ。

百合

出がけにつまらないことでKと口げんかをした朝、コーヒーを飲みに行った喫茶店の見るともなしにめくった週刊誌で、武田百合子さんの死を知る。堅くなっていた気持ちに、じわじわとその死が染み込んできた。

その夜はいつになく話が盛り上がり、未来の世の中のこと、宇宙のこと、私たちの信じるものについて二人とも興奮して喋っていた。話は日常から離脱して、広大な世界を遊泳していた。

引っ越し

最後の場面、「人は去る」という字幕スーパーを頭に残して、映画館を出た。細かな雨が降り出していて、街の灯がけむっている。映画を見終わった後の夜の闇は、いつもの夜と違う。深々と何か物思いに耽ってしまいたいという気分に駆られる。


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