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林家雑記 その12 

百合


出がけにつまらないことでKと口げんかをした朝、コーヒーを飲みに行った喫茶店の見るともなしにめくった週刊誌で、武田百合子さんの死を知る。堅くなっていた気持ちに、じわじわとその死が染み込んできた。生きていることが、わたしの知らないところで死に変わっていく。生きているうちに、生きていれば。早くしなければ、先延ばしにしていると、いつのまにか違うことになってしまっている。もはや、彼女と同じ時代を生きてはいないのだ。
あの文章を生み出す一つの魂が消えてしまった。何度もその記事を読む。その現実を読む。思えば彼女の存在は、そうやって活字を読んでいくことで、わたしの中に生きていたわけで、今は、他人の書いたものによって、彼女の死を覚えるしかない。本人だったら自分の死をどう書いただろうか。
白い百合の花を一本買って帰った。まだ固いつぼみが六つ付いている。彼女は百合の花のようだったのだろうかと想像する。花の生命力だけがやけに際立って見える。死の現実が、どうしてもわからない。
やがて、ある朝一つつぼみの先が開く。そして一つまた開く。白くて強い花だ。夜になってお風呂に入ろうとしたKが「洗剤の匂いがする」と言う。しばらく考えたが洗剤にとくに思い当たる節はない。「百合の花が開いたから百合の香りじゃない。きっと。」
夜になると強い甘い目にしみるような香りをにじませ、朝にはまた次の花を開かせるのだ。
生きているということは、闇と光に感応し、発情するということ。


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