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林家雑記 その14 

引っ越し


最後の場面、「人は去る」という字幕スーパーを頭に残して、映画館を出た。
細かな雨が降り出していて、街の灯がけむっている。映画を見終わった後の夜の闇は、いつもの夜と違う。深々と何か物思いに耽ってしまいたいという気分に駆られる。車を走らせ、唐突に動くワイパー越しに、遠い世界の闇を見つめながら家へ帰る。
そこに、まだ仕事から帰ってきてはいないはずのKが、駐車場の路地に傘をさして立っている。赤いチェックの傘をさし白いTシャツの袖をひらひらさせ、濡れている若者のように。
「傘持ってないと思って」
嬉しいけどうまく感謝の気持ちを伝える言葉にならず、それよりなんだかいつもと様子が違う。傘をさしてお迎えなんて、よく考えなくたって何か変だ。
一本の傘に寄り添い、水たまりをうまく避けながら歩く。少し不可解な表情を浮かべているわたしに、Kはにこにことしている。
家に入って「早速だけど」あらたまったKの報告は、転職とそれに伴う引っ越しであった。
映画のようなその夜ずっと雨は降り続き、わたしはいつまでもスクリーンの中にいるようだった。突然のことに、現実が空中分解して、わたしは感情的になったり、平静を装ったり、まるで主人公を演じているようだったのだ。そうしてわたしの現状把握は、雨上がりを待たねばならなかった。
そうと決まれば、早回しのように時間を送っていくことになる。生活が次々と箱に詰め込まれ、親しんだものや人たちにひとまずの別れを告げる。これからを前向きに考える気持ちと、ここには戻らない寂しさの間で激しく揺れ動く。宙ぶらりんになっている自分の気持ちに気付いたりもする。人生のうち、幾度自分の荷物をひとまとめにし、こうして次に行かねばならないのか。これら背負うほどの価値あるもの、無きものをともなって。
引っ越し当日は、初夏の気持ちよく晴れた日だった。運送屋のお兄さん達はそれが仕事なのだが、重いものや運びづらいものまでせっせと運ぶ。面度臭がって、ぐずぐず時間ばかりかかったわたしの荷造りが、あっというまに目の前から運び去られた。引っ越しも仕事となると、こんなにも簡単な作業となる。
向かいの家のおばあさんが、外に出てこちらを見ている。
「寂しくなるねえ」
そう言われても話しかけられたのは初めてだ。
「夜遅くまで電気がついていたから、わたしゃあ心強かったのに」
それは思いもよらなかった。
「元気でねえ。寂しくなるねえ」
おばあさんは、ひとり寂しさの中に立ちすくんでいる。
 
からんと音のしそうな空っぽの家に風が通る。こんなに風通しのよい家だったのだ。
「住んでる時より綺麗になった。」掃除の手伝いにきていた母が、満足そうに笑っている。
「もう一回ここに引っ越してきてもいいねえ」と、Kと一緒に笑う。
 
最後の戸締まりをして先に車に乗り込んでいると、Kがお赤飯を手に持って走って来た。
「隣の人が、こんなものしかないけどって」
 
お赤飯を手に、我々林家の話は、まだまだつづく。
 
それではまた、ごきげんよう。


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