台湾宜蘭県のまちづくり

新型コロナウイルスが落ち着いて自由に旅行できるようになったら、パンデミック時のGWに行く予定だった台湾に行こうと思っていました。九州くらいの台湾を一回りしようと思っていたので、時計で例えると1時の宜蘭市から、時計の逆回りに台中、台南、高雄と6時の恒春、鵝鑾鼻岬まで行っていたので、残りは東海岸の花蓮、台東あたりでした。
台北IN/OUTになるので、花蓮あたりを調べていたのですが、途中で泊まる予定だった宜蘭県の羅東やその周辺に面白そうな建物やランドスケープデザインのものがいくつもあります。さらに調べていくと、40年前から県長(日本では県知事)が明確な目的とビジョンで地域を活性化させていたことを知ることができました。

県長 陳定南さん

1981年に、陳定南さんが宜蘭県長となったことから全てが始まったようです。
大規模な工場の進出をストップし、汚職を根絶し、環境を保護しつつ観光産業を発展させるというものでした。
今でもgoogle mapで民泊を検索すると、恐ろしい数の民泊がヒットしますし、サイクリングロードや温泉公演、羅東夜市、自然公園など、台北から日帰りでも楽しめる観光エリアとなっています。

宜蘭県の住民の環境意識の計測

象設計集団とFieldoffice Architects

県長に就任した陳さんは、当時早稲田の博士課程にいた郭中端さんの論文を読んで、県の計画に参加するように依頼しますが、当時は学生であったために、兄弟子にもあたる象設計集団を推薦します。象設計集団はそこから今に至るまで、多くの建築や公園をつくっています。造園の設計は高野ランドスケープが現地法人を作って現在も台湾全土で活動しています。
Fieldofficeの黃聲遠さんは、1994年から羅東県で仕事を始めます。小さな道の再生から公共施設まで、現在も毎年のように公共建築が竣工しています。日本での作品集(LIVING In PLACE)を観て2016年に宜蘭市に行ったのが台湾に継続的にいくようになったきっかけでした。

台湾はどの町に行っても、人は親しみやすくて親切で、日本統治時代の建築を大切に活用している点は共通しています。多くの都市では、外国人建築家に大きな建築を作ってもらうケースが非常に多いです。もちろん都市の環境や文化レベルは大きく向上して、観光資源にもなることですが、ここ宜蘭県では多くの建築が地元に根を下ろしている象設計集団とFieldofficeが作り続けているといってもいい状況です。これは県長やその政党が替わっても続いていることなので、完全に定着している思われます。
表現の手法も、継続性がありますし、大切にしていることも一貫しているので、地元の人たちは、誰が設計したか?についてはそれほど気にすることなく、建築を作品としてではなく、生活と連続したものとして活用しているように思います。

陳定南さんのことは、今回調べていくなかで知ることができた人物ですが、一人の人物と、それを継承する多くの人が作り続ける地域を観にいくというのが、今回の旅のテーマとなりました。

羅東県(宜蘭市をのぞく)の建築の一部。今回訪問したものは太文字
1981年 陳定南宜蘭県長就任
1994年 冬山河親水公園 <象設計集団+高野ランドスケープ>
1997年 宜蘭縣政大樓 <象設計集団>
2005年 礁溪湯圍溝公園 <象設計集団>
2005年 礁溪生活學習館 <Fieldoffice>
2006年 陳定南没
2011年 礁溪溫泉公園 <象設計集団>
2014年 羅東文化工場 <Fieldoffice>
2016年 冬山河生態綠舟 <象設計集団+高野ランドスケープ>
2018年 壮囲沙丘旅遊服務園区 <Fieldoffice>
2021年 礁溪轉運站旅人廊道 <Fieldoffice>
2022年 礁溪國小運動場及地下停車場 <Fieldoffice>
2023年 宜蘭市バスターミナル <Fieldoffice>

天路の旅人 沢木耕太郎

沢木耕太郎の「天路の旅人」を読みました。
戦時中、山口県出身の西川一三が大陸に渡って、自ら売り込んで内蒙古など内陸部の情勢を探る外務省の密偵となったところから旅は始まります。ラマ教の巡礼僧に扮して、雪のモンゴルを西に向かって踏破していきます。
長城に囲まれている漢民族の住むエリアを弓の形に取り囲むように広がる大草原と遊牧民族たち。
青海省を経て西藏に入り、ラサで終戦を迎えます。
本国の情勢もわからず、帰還命令も無視して、日本人を探すためにヒマラヤを超えてインドに入る。

その後も、チベットで修行したり、インドを旅したりして旅を人生とするが、ビルマ潜入の直前に逮捕されて日本に帰還して8年の旅が終わります。

彼が見聞きしたことは、任務中には何度かの外務省への報告だけでなく、戦後はチベット侵略を警戒する英国情報部や、帰国後の10ヶ月にわたるGHQの取り調べなど、地政学的にも大変価値があったことだと思います。
しかし、西川さん本人は、ただの自由を愛する旅人であることを生涯貫いたようです。

膨大な原稿が沢木さんの手に渡って、24年前の西川さん生前のインタビューなども合わさって、7年間の執筆で一冊の本となりました。本人の記録に加えて、沢木さんの取材や編集によって、壮大な西川一三という文学作品になっていると思います。

僕も大学を卒業した後に、旅をしていた中国からなんとか隣接する国に行きたくて、青海省を経由してチベットに潜入し、ネパールに抜けようとトライしたことがありました。きまぐれでバスで移動してただけなので、砂漠でも雪原でも基本的に徒歩だった西川さんのすさまじい旅とは、とても比較にはならないですが、自由を愛する旅人の気持ちの一端は共感できます。

侵略前の西藏や内蒙古の風俗や寺院での暮らし、独立前後のインドなど、あまりの面白さに流れるように読んでしまったが、情景を想像しながらまたじっくり読んでみたい。

藤原新也

先月福岡の喫茶店にあったチラシで小倉の藤原新也展を知って、写真展を観る前に藤原新也が過ごした門司に行きたいと思った。港町には可能であれば船でアプローチしたい。
朝早くから観光客で賑わう下関の唐戸から船で門司に上陸。洋館の残るエリアから離れると閑散とした商店街が広がり、隙間から山裾に店や家屋が続いている。

藤原新也の生家跡は特に調べる事なく、彼が暮らした痕跡の発見もそれほど期待せず、ただ門司の今の街を見て回ろうと思ってた。

通りの隙間から綺麗な石垣の上に三階建の木造料亭建築が見える。食事は済ましてたので通り過ぎようとすると、階段から女性グループが降りてきた。見学できるなら、、、と思って入ってみた。

どちらから?と親切なスタッフ。

広島からですが、藤原新也展を観る前に門司に来ましたと伝えると、生家はここの隣なんです。と。え!

この料亭建築「三宜楼」は、取り壊しの危機も乗り越えて、地元の人たちが守って管理をしてるとのこと。いい建築が残るのは、建築を大切に思って行動する人たちがいてこそ。

生家は基礎だけ残ってる状態で思ったより小さく感じる。生家の旅館が破産した翌年に門司市は小倉などと合併して北九州市となっている。昭和35年、36年のこと。町は大きな曲がり角だったのだろう。

単一の役割で急速に発展した都市は、その条件が失われると弱い。しかし、かつての繁栄は建築にその痕跡が残る。そうした建築を大切にする事は町の歴史や文化を大切にする事であり、地域のコミュニティや尊厳を大切にすることでもある。門司の人たちと建築の気持ちのよい関係を嬉しく感じる。隣の旅館も基礎だけでなく、建物が残っていれば、、、と思う。

藤原新也展は小倉城の市立美術館分館と図書館併設の文学館で開催。インド放浪、チベット放浪、逍遥游記、全東洋街道、、、、東北の震災、香港民主化運動、緊急事態宣言、小保方さん、AKB、寂聴さん、沖ノ島、、

二十歳の頃に読んだ作品やその後のもの、知らなかった作品まで、藤原新也が一貫して表現したものがよくわかる企画で、人や命を問いかける作品が心に突き刺さったし、その原点が門司の街や生活にあったんだろうなと感じられました。寂聴さんやお父さんとのエピソードも藤原新也らしくて。

二十歳過ぎて藤原新也を知って、写真と言葉から、人とは何か?命とは?という問いかけとメッセージはその後の人生の骨格の一部を間違いなく構成していると思う。
大学を卒業して少し時間が取れたので、インドに行きたいと思ったが予算が足りなさそう。それで中国ならインドとは違うエネルギーを感じられるのではないかと思って旅に出た。
しかし、中国だけではどうやら予算が余ること、確かに人のエネルギーは強いものの、共産主義的な社会の欺瞞性が気になって、シルクロードをそのまま進むことにした。「全東洋街道」と逆に中国からギリシャまで。カメラも持たず、予定になかった知らない国を旅することで、多くのことを学ぶことができた。

藤原新也は今も変わらず表現をし続けていることが確認できて、私たちに人や命について考えるきっかけを与えてくれていることが嬉しい。

源義経とアイヌとイザベラ・バード

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、脚本家の腕が素晴らしく、歴史的な史実をうまくエンターテインメントとして作り上げています。特に、菅田将暉の源義経は、これまで演じられてきた源義経のイメージを塗り替えてしまった感じです。

源義経伝説は各地に残っているようです。武力に特別秀でていた八幡太郎義家のひ孫で、当時の常識を覆す戦術は、驚きと共に強さとして歴史に残っています。

明治初期にアジアを旅して、貴重な書物を残したスコットランド人地理学者のイザベラ・バードは、「日本奥地紀行」の中に北海道を訪れたときの記録を書き記しています。

「副酋長が私に、病人に対して親切にしれくれたことに対するお礼として、外国人が今まで誰も訪れたことのない彼らの神社に案内したい、と言った。
「ジグザグ道の頂上の壁ぎりぎりの端に木造の神社が建っている。」「明らかに日本式建築である。」
「棚には歴史的英雄義経の像が入っている小さな厨子がある。」「義経の華々しい戦の手柄のためではなくて、伝説によれば彼がアイヌ人に対して親切であったというだけの理由で、ここに義経の霊を絶やさずに守っているのを見て、私は何かほろりとしたものを感じた。」

とあります。
日本建築の神社であることから、いつの時期かに建立したのは東北地方から来た日本人なのか。アイヌ人に親切であったという伝説は、判官贔屓の私たちにも嬉しい伝説ですが、アイヌ人に親切にしたイザベラ・バードがここに招かれたこともまた興味深いです。