藤原新也

先月福岡の喫茶店にあったチラシで小倉の藤原新也展を知って、写真展を観る前に藤原新也が過ごした門司に行きたいと思った。港町には可能であれば船でアプローチしたい。
朝早くから観光客で賑わう下関の唐戸から船で門司に上陸。洋館の残るエリアから離れると閑散とした商店街が広がり、隙間から山裾に店や家屋が続いている。

藤原新也の生家跡は特に調べる事なく、彼が暮らした痕跡の発見もそれほど期待せず、ただ門司の今の街を見て回ろうと思ってた。

通りの隙間から綺麗な石垣の上に三階建の木造料亭建築が見える。食事は済ましてたので通り過ぎようとすると、階段から女性グループが降りてきた。見学できるなら、、、と思って入ってみた。

どちらから?と親切なスタッフ。

広島からですが、藤原新也展を観る前に門司に来ましたと伝えると、生家はここの隣なんです。と。え!

この料亭建築「三宜楼」は、取り壊しの危機も乗り越えて、地元の人たちが守って管理をしてるとのこと。いい建築が残るのは、建築を大切に思って行動する人たちがいてこそ。

生家は基礎だけ残ってる状態で思ったより小さく感じる。生家の旅館が破産した翌年に門司市は小倉などと合併して北九州市となっている。昭和35年、36年のこと。町は大きな曲がり角だったのだろう。

単一の役割で急速に発展した都市は、その条件が失われると弱い。しかし、かつての繁栄は建築にその痕跡が残る。そうした建築を大切にする事は町の歴史や文化を大切にする事であり、地域のコミュニティや尊厳を大切にすることでもある。門司の人たちと建築の気持ちのよい関係を嬉しく感じる。隣の旅館も基礎だけでなく、建物が残っていれば、、、と思う。

藤原新也展は小倉城の市立美術館分館と図書館併設の文学館で開催。インド放浪、チベット放浪、逍遥游記、全東洋街道、、、、東北の震災、香港民主化運動、緊急事態宣言、小保方さん、AKB、寂聴さん、沖ノ島、、

二十歳の頃に読んだ作品やその後のもの、知らなかった作品まで、藤原新也が一貫して表現したものがよくわかる企画で、人や命を問いかける作品が心に突き刺さったし、その原点が門司の街や生活にあったんだろうなと感じられました。寂聴さんやお父さんとのエピソードも藤原新也らしくて。

二十歳過ぎて藤原新也を知って、写真と言葉から、人とは何か?命とは?という問いかけとメッセージはその後の人生の骨格の一部を間違いなく構成していると思う。
大学を卒業して少し時間が取れたので、インドに行きたいと思ったが予算が足りなさそう。それで中国ならインドとは違うエネルギーを感じられるのではないかと思って旅に出た。
しかし、中国だけではどうやら予算が余ること、確かに人のエネルギーは強いものの、共産主義的な社会の欺瞞性が気になって、シルクロードをそのまま進むことにした。「全東洋街道」と逆に中国からギリシャまで。カメラも持たず、予定になかった知らない国を旅することで、多くのことを学ぶことができた。

藤原新也は今も変わらず表現をし続けていることが確認できて、私たちに人や命について考えるきっかけを与えてくれていることが嬉しい。

サピエンス全史

読もうと思いながら手をつけてなかったサピエンス全史を読みました。
私たちホモ・サピエンスの誕生から現在まで客観的にわかりやすく、そして未来の可能性も少しふれています。
ホモ・サピエンス以外の広い意味での人類の仲間であるネアンデルタールやホモ・エレクトスなど、私たちのようにならなかった別の人類との違いから見えること、様々な歴史の中で選択可能だった選択肢の可能性など、当たり前と思っている自分たちの常識を俯瞰してみることのできる視点が新鮮でした。

本能寺の変

NHK大河ドラマ麒麟が来るは、たくさんの困難な状況の中、大変楽しめるいいドラマに仕上がったと思います。
主演の長谷川博己さんは、建築史家の長谷川堯氏の御子息。長谷川堯氏といえば村野藤吾氏の研究を行なっており、広島の世界平和大聖堂ともご縁のある方。世界平和大聖堂というと本能寺の変前後に信長や光秀周辺で大いに活動をしていたイエズス会の教会で、光秀の娘ガラシャも信者となっているというご縁もあります。

本能寺の変が起こったことは日本史上極めて大きな事件だったわけですが、動機や背景は藪の中。その後の関係者が必死で隠蔽したのでしょうか?
歴史を見ていく中で、緻密に記録された書物に、空白があるということはそこに何か隠したいことがあったと見るべきで、何を語ったのか?ではなく、何を語っていないのか?を見ていくと、つながりや背景が見えてきます。これは、現在の政治家やマスコミの報道にも言えることですが。

黒幕が指示をして光秀が実行したのか?という説に関しては多くの研究者は黒幕がいるという説。いないという説。ドラマの脚本家はいない説を採用していました。私も半ばそう思います。信長を倒した後の政権構想や、権力の維持のシナリオが無きに等しいので。
226事件と比べるとこちらのほうが計画がはっきりとしています。
しかし、何らかの周辺の協力者や関係者がいないと、実行も不可能だったわけですので、複数いたと言われています。

吉田神社宮司の吉田兼見は日記に4日ほど空白があり、変の後に光秀と最も接触していた人物ですので協力者と見ていいでしょう。
近衛前久がそそのかした中心人物ではないかと思っていますが、前久は変の後に責められ、6月に出家したのちに、11月に三河の家康の元に逃げます。その後も秀吉や家康には改姓など大変な便宜を図っていますので、相当な弱みを両者に握られたと思えます。
秀吉は前久の養子となって関白になり、後に豊臣氏となっていますし、家康は吉良氏から買った系図に松平を付け加えて征夷大将軍になっています。皆前久の主体的な協力無くしては不可能だったことです。
ちなみに信長が所有していて本能寺に持ち込んだ天下の茶器「初花肩衝」は、なぜか後に三河の松平親宅に渡り、徳川家康のものとなります。近衛前久が本能寺から持ち出し、家康のもとに走った時になんらかの理由で松平親宅に渡したと言われています。

イエズス会黒幕説は疑問です。宣教師ヴァリヤーノは天正9年の京での馬揃えの5日前に信長に謁見し、その後5ヶ月に渡って安土に滞在しています。当時の欧州では前年にフェリペ2世によるスペインポルトガル併合があったタイミング。
様々な可能性を踏まえてヴァリヤーノは信長と交渉したと思われます。
結果は信長が拒否したのか、イエズス会との交渉は決裂したと思われ、ヴァリヤーノは安土を去り、別の事業(天正遣欧使節)に邁進します。
ヴァリヤーノは後にマニラ総督に「将兵の強い日本を征服するのは難しいが、明国征服事業に役立つだろう」と手紙で送っているので、日本の侵略を含む計画をもって接触したと思われます。
逆に、信長はイエズス会の明国侵略のアイデアを独自の事業として検討し、それを秀吉が継承するということにつながったと思われます。フェリペ2世や欧州の王政のことも聞いたと思うので、ここで日本の天下の制度を変えるアイデアを思いついたのかもしれません。

深夜の本能寺の変前日に本能寺で行われた茶会は博多の豪商茶人鳥井宗室や神谷宗湛とのものでした。宗室は大名物茶入「楢柴肩衝」を持っていたので、信長は所有の「初花肩衝」と「新田肩衝」に加えて天下の三大・大名物茶入を全て揃えようとしていたようです。
これをセッティングしたのは千利休だと言われています。つまり信長のスケジュールを握っていたキーパーソンは千利休。
後の秀吉の「唐入り」前に、外征反対派の粛清が行われますが、千利休切腹も唐入り反対が原因という説が。信長の「唐入り」阻止を狙って利久が動いた可能性もなきにしもあらずですね。
もしも利休が関与していたなら秀吉にも誘いがあった可能性はあります。
変の後、信長所有の「初花肩衝」は近衛前久によって持ち去られたようですが、「新田肩衝」はなぜか豊後の大友宗麟のもとへ。本能寺の2ブロック隣にあった南蛮寺のイエズス会が持ち出して、天正遣欧使節の準備をしていた大友宗麟に渡したのでしょうか?

変前々日の16時に信長は本能寺に到着(36時間前)。翌日茶会、光秀亀山出陣そして途中18時に謀反の意思を宿老に伝達。早朝本能寺包囲。
堺で家康を接待していた織田信忠は信長の上洛を迎えるために帰京し二条陣屋に滞在し、そこには誠仁親王も。二条陣屋の隣は近衛前久邸。毎日のように変わる情勢だったので、亀山からでは正確な情勢判断は難しかったのではないでしょうか。
タイムキーパーがいて、連絡を取り合っていないと成り立たない計画ですし、何より前日の茶会が信長を京におびき寄せる罠だったのでしょう。
松永久秀や波多野秀治、荒木村重も信長に謀反を起こしていますが、皆自分の城に立てこもっています。光秀も亀山城で挙兵という方法もあったはずですが、無防備な一瞬をつく行動に出ていることから、正確な情報を得られる人物が前日の本能寺にいたと思っていいでしょう。

近衛前久を中心とする京都の陰謀仲間が亀山の光秀と緊密に連絡をとり、茶会開催のタイミングで決行可の連絡を移動中の光秀に送ったというのがあり得るシナリオのように思います。茶会で呼び出すのは利久が担当。

天海僧正は明智光秀との説はありますが、そうであるなら115歳まで生きたことになります。明智左馬之助秀満は天海僧正と同じ1536年生まれとの説もあるので、可能性があるならこちらと思われます。
天海と名乗って関東に現れるのは本能寺の変の6年後で、北条攻めの時には家康の陣幕にいたとされ、1607年からは比叡山復興を担当します。後に方広寺鐘銘事件にも深く関わっているので、豊臣家滅亡のきっかけをつくった人物でもある。山崎の仇を大坂で討った?

春日局は光秀重臣であった斎藤利三の娘。斎藤利三は四国の長曾我部元親と関係が深く、織田の長曾我部攻めが本能寺の変の原因とも言われているほど。信長を討つことは光秀以上に積極的だった可能性は高い。
春の局が結婚した稲葉正成は小早川秀秋の家臣で、関ヶ原の戦い前に東軍に寝返らせた功労者だったという。山崎の仇を関ヶ原で討った?

世を平らかにするためにフェリペ2世→イエズス会→織田信長→豊臣秀吉と海外侵略路線を継承した豊臣政権を討つのが「麒麟が来るシーズン2」とするなら、唐入りを阻止する動きが前半。
後半は秀吉死後、関ヶ原前に東軍の為に命を捨てるお玉(ガラシャ)や、小早川秀秋を動かす稲葉正成そこに茶を飲みに来ている駒、戦場で活躍する細川忠興、大坂の陣で豊臣を滅ぼすきっかけを作った天海僧正(明智左馬之助)など要所要所にシーズン1ゆかりの人物が出てきそうな雰囲気です。当然主人公が家康となるので、菊丸が相当重要な役割を担うことになるはず。

織田信長をあのタイミングで討たざるを得ない動機はいくつもあげられていますが、関わる人によって動機は様々。京の公家は「朝廷制度変更も含む信長政権構想」を止めようというもの。ただし急ぐ必要はなし。光秀でなくても可能。無防備な少人数の茶会をセッティングすればチャンスはその後もあったと思われます。利久にしてもしかり。
光秀や斎藤利三にとっては、織田信孝軍の四国渡海阻止が大きかったと思われるので、あのタイミングしかなかったと思われます。

eのつくAnne

NHK BSPで「アンという名の少女(ANNE WITH AN”E”)」を放映しています。
昭和後期世代にとっては、村岡花子訳の小説や高畑勲監督のアニメの印象が強いと思います。
高畑監督のアニメには、途中まで宮崎駿さんが関わってたようですが、あまり好きなキャラクターではなかったようで、カリオストロの城に行ってしまったようです。

今回のドラマはカナダのCBCとNetflixの制作で、3シーズンのうちの第1シーズン。
アンがプリンスエドワード島に行くまでの孤児院などでの辛い体験がトラウマになっている設定をはじめ、ありえたであろう様々な社会状況がリアルさを感じるくらい描かれています。
かつてのアンの想い出を大切にするなら観ない方がいいかも。

作者のモンゴメリは1874年(明治7年)生まれなので、高浜虚子や佐藤紅緑と同い年となります。
作品を発表したのは1908年なので、19世紀末のプリンスエドワード島の生活が描かれていることになります。
孤児院で育った少女が高い教育を受けて成長する物語として有名な小説に「あしながおじさん」がありますが、作者のジーン・ウェブスターは1876年生まれ、作品の発表は1912年なのでほぼ同時代と言っていいでしょう。
両作品は、カナダ東北部とニュージャージー州と距離は離れているものの、共に孤児院など社会福祉や女性の教育や社会活動についてをテーマにしていますが、その時代の女性の勢いが今に続いてるように感じます。
日本でも平塚らいてうの青鞜が1911年創刊。
女学校を出て教師をしていた祖母は1905年生まれだったので、大正デモクラシーの時代の空気から何らかの影響を受けているのかもしれません。