天路の旅人 沢木耕太郎

沢木耕太郎の「天路の旅人」を読みました。
戦時中、山口県出身の西川一三が大陸に渡って、自ら売り込んで内蒙古など内陸部の情勢を探る外務省の密偵となったところから旅は始まります。ラマ教の巡礼僧に扮して、雪のモンゴルを西に向かって踏破していきます。
長城に囲まれている漢民族の住むエリアを弓の形に取り囲むように広がる大草原と遊牧民族たち。
青海省を経て西藏に入り、ラサで終戦を迎えます。
本国の情勢もわからず、帰還命令も無視して、日本人を探すためにヒマラヤを超えてインドに入る。

その後も、チベットで修行したり、インドを旅したりして旅を人生とするが、ビルマ潜入の直前に逮捕されて日本に帰還して8年の旅が終わります。

彼が見聞きしたことは、任務中には何度かの外務省への報告だけでなく、戦後はチベット侵略を警戒する英国情報部や、帰国後の10ヶ月にわたるGHQの取り調べなど、地政学的にも大変価値があったことだと思います。
しかし、西川さん本人は、ただの自由を愛する旅人であることを生涯貫いたようです。

膨大な原稿が沢木さんの手に渡って、24年前の西川さん生前のインタビューなども合わさって、7年間の執筆で一冊の本となりました。本人の記録に加えて、沢木さんの取材や編集によって、壮大な西川一三という文学作品になっていると思います。

僕も大学を卒業した後に、旅をしていた中国からなんとか隣接する国に行きたくて、青海省を経由してチベットに潜入し、ネパールに抜けようとトライしたことがありました。きまぐれでバスで移動してただけなので、砂漠でも雪原でも基本的に徒歩だった西川さんのすさまじい旅とは、とても比較にはならないですが、自由を愛する旅人の気持ちの一端は共感できます。

侵略前の西藏や内蒙古の風俗や寺院での暮らし、独立前後のインドなど、あまりの面白さに流れるように読んでしまったが、情景を想像しながらまたじっくり読んでみたい。

ドイツ×サッカー×広島

広島のマツダ、サンフレッチェでプレーして、監督としてサンフレッチェを4年で3度優勝させた森保さん。森保さんのマツダ時代から一年先輩でヘッドコーチとして常にいっしょの横内さん。レジェンドキーパーの下田さん。FWとして在籍した上野さん。フィジカルコーチ松本さん。一人を除いて全員が広島に縁のある首脳陣が日本代表を率いています。広島ジャパンです。

元々サンフレッチェ出身の監督は多いと言われています。特にマツダ時代からの選手に。
当時の監督はオフト監督。総監督は今西和男さん。
この二人の教え子たちがサッカー界を支える側で頑張ってると。今の日本代表もその一つと思っていいと思います。
カタールのドーハの悲劇のイラク戦はオフト監督、ボランチ森保一でした。歴史が一巡した瞬間。

広島とドイツの縁は第一次世界大戦から始まります。
日清戦争時に戦地から感染症を持ち帰る事を防ぐための検疫を行う為に、広島湾の似島に検疫所が作られました。若い頃の後藤新平が大活躍したのもこの検疫所です。
そこに、第一次大戦時にドイツが領有していた青島などから降伏した兵士の収容所が作られます。欧州の地獄のような消耗戦とは無縁ののどかな収容所だったようで、ここ捕虜からバームクーヘンホットドッグが日本に残されていきます。同時にドイツサッカーも伝わっていきます。

日本にもサッカーは普及していたのですが、ドイツの捕虜たちのテクニックは素晴らしく、それを学ぶために旧制第一中学校の生徒は手漕ぎのボートで島に通ったそうです。

その中学校サッカー部の卒業生が、東洋工業サッカー部をつくってサンフレッチェにつながり、又その島の旧収容所の隣で育った森健兒はJリーグを作る仕事をしました。

日本代表に大きな影響を与えたドイツ人指導者クラマーさんの招聘も、当時の会長だった野津謙さんの独断だったとか。野津さんも広島一中サッカー部出身。マツダもドイツロスチャイルド系とされる住友グループだったのでドイツとの縁はあったように思います。

森保さんの代表での戦い方には、広島時代から継承されてる点が随所に見えます。
当時、前半に一点取った後、前がかりになった相手に対して浅野を投入してスピードを活かして追加点を取るというパターンがありました。今の代表には浅野が三人います。3バックもそうですし、状況に応じて3バックと4バックを流動的に使う点も。

森保さんが広島の監督を退陣した後、今シーズンからドイツ人のスキッベ監督が指揮しています。ドイツ代表のコーチもしてた人物で、前線からの早いボール奪取からのカウンターを狙う感じは、現在のドイツ代表の戦術との一致点も見られます。

今夜の日本代表とドイツ代表の戦いは、広島にする人にとっては数々の因縁があって、面白さは倍増するように思います。佳き戦いが展開される事を祈っています。

福音館の松居直さん

僕が生まれた時、うちには福音館の絵本が沢山ありました。離島の中学校の教師だった父が隣の島の御手洗の本屋さんに、兄のために福音館の絵本を何冊か注文したつもりが、福音館の当時の絵本全部が届いたようで、ダンボール何箱分もの絵本があったのです。父の間違いなのか、本屋さんの間違いなのかは分かりませんが、幸運に恵まれたと思っています。

お陰で、僕は福音館の絵本が血となり肉となって今に至っています。どの本も素晴らしくて、読み返すことがあっても、どれもいつも新鮮で。今ほど絵本が豊富にあった時代ではなかったのに、本屋のない離島の教員住宅の一室が子どもにとって天国のような場所でした。

福音館でそれらを作ったひとりが松居直さんだと知りました。月刊誌 母の友も、母が購読していたので、単に絵本やお話だけではなく、世の中のことを知る機会も子供の頃から身につける事ができました。連載されていた「銀のほのおの国」を少し大きくなって読むようにもなったので、何度も何度も引っ張り出して読んでいました。

おおきなかぶ、ぐりとぐら、じぷた、がらがらどん、てぶくろ、どろんこハリー、ラチとらいおん、しろいうさぎとくろいうさぎ、ブレーメンのおんがくたい、アンディとらいおん、マーシャとくま、、、

松居さんに心から感謝し、ご冥福をお祈りします。

藤原新也

先月福岡の喫茶店にあったチラシで小倉の藤原新也展を知って、写真展を観る前に藤原新也が過ごした門司に行きたいと思った。港町には可能であれば船でアプローチしたい。
朝早くから観光客で賑わう下関の唐戸から船で門司に上陸。洋館の残るエリアから離れると閑散とした商店街が広がり、隙間から山裾に店や家屋が続いている。

藤原新也の生家跡は特に調べる事なく、彼が暮らした痕跡の発見もそれほど期待せず、ただ門司の今の街を見て回ろうと思ってた。

通りの隙間から綺麗な石垣の上に三階建の木造料亭建築が見える。食事は済ましてたので通り過ぎようとすると、階段から女性グループが降りてきた。見学できるなら、、、と思って入ってみた。

どちらから?と親切なスタッフ。

広島からですが、藤原新也展を観る前に門司に来ましたと伝えると、生家はここの隣なんです。と。え!

この料亭建築「三宜楼」は、取り壊しの危機も乗り越えて、地元の人たちが守って管理をしてるとのこと。いい建築が残るのは、建築を大切に思って行動する人たちがいてこそ。

生家は基礎だけ残ってる状態で思ったより小さく感じる。生家の旅館が破産した翌年に門司市は小倉などと合併して北九州市となっている。昭和35年、36年のこと。町は大きな曲がり角だったのだろう。

単一の役割で急速に発展した都市は、その条件が失われると弱い。しかし、かつての繁栄は建築にその痕跡が残る。そうした建築を大切にする事は町の歴史や文化を大切にする事であり、地域のコミュニティや尊厳を大切にすることでもある。門司の人たちと建築の気持ちのよい関係を嬉しく感じる。隣の旅館も基礎だけでなく、建物が残っていれば、、、と思う。

藤原新也展は小倉城の市立美術館分館と図書館併設の文学館で開催。インド放浪、チベット放浪、逍遥游記、全東洋街道、、、、東北の震災、香港民主化運動、緊急事態宣言、小保方さん、AKB、寂聴さん、沖ノ島、、

二十歳の頃に読んだ作品やその後のもの、知らなかった作品まで、藤原新也が一貫して表現したものがよくわかる企画で、人や命を問いかける作品が心に突き刺さったし、その原点が門司の街や生活にあったんだろうなと感じられました。寂聴さんやお父さんとのエピソードも藤原新也らしくて。

二十歳過ぎて藤原新也を知って、写真と言葉から、人とは何か?命とは?という問いかけとメッセージはその後の人生の骨格の一部を間違いなく構成していると思う。
大学を卒業して少し時間が取れたので、インドに行きたいと思ったが予算が足りなさそう。それで中国ならインドとは違うエネルギーを感じられるのではないかと思って旅に出た。
しかし、中国だけではどうやら予算が余ること、確かに人のエネルギーは強いものの、共産主義的な社会の欺瞞性が気になって、シルクロードをそのまま進むことにした。「全東洋街道」と逆に中国からギリシャまで。カメラも持たず、予定になかった知らない国を旅することで、多くのことを学ぶことができた。

藤原新也は今も変わらず表現をし続けていることが確認できて、私たちに人や命について考えるきっかけを与えてくれていることが嬉しい。