芽吹きの爆発
2012/4/24 火曜日 - 1:48 pm by noriko
2012/4/24 火曜日 - 1:48 pm by noriko
- 1:46 pm by noriko
大阪を通ったついでに、国立国際美術館で開催されていた草間弥生展に行きました。「永遠の永遠の永遠」とタイトルのついた展覧会の内容は、2004年以降のシリーズもの二つと新作ポートレート、彫刻など。彼女の表現本能が何かとがっちり手を組んで世の中に知らしめしている、といった印象。メーク無しでエプロンして震える手で色を塗り込めていく一人のばーさんの癖のような「絵を描く」ことが、愛や魂や幻想や永遠をまとって展示される。確かに、画面構成や色の組み合わせはうまいなあと思うけど。アミューズメントされすぎてやしないだろうか。チューリップの部屋も、写真には写らないように撮っているのだけれど、ここで鑑賞者はみな写真をとるのである。撮影可能箇所が決められていて、そこではかならず携帯やら何やらでみな写真を撮る。すっごいパワフルなおばちゃんやねえ、なんて言いながら。やむにやまれぬ感ややるせなさのような草間弥生的煩悩は、すでに永遠の永遠の永遠の彼方に、昇華されてしまったのだろうか。
2012/3/29 木曜日 - 6:56 pm by noriko
友人がかつて通っていた洋裁学校が取り壊されることになり、使えるようなものがあれば持っていってください、ということで、いただいてきた椅子です。
生徒さんたちが座っていた椅子。ちょっと小さいサイズで、脚が細くて、なかなかよいかんじです。
そういえば、○○洋裁学校と看板のある、校舎のような洋館のような建物がどこのまちにも、存在していたような気がします。洋服を着るようになった時代、既製服ではなくオーダーで誂えていた時代。そして自分で洋服をつくるというのが、あっという間に浸透して、花嫁修業のひとつ、女性が持っているとよろしいこととされる技術として、洋裁学校は賑わっていたのだと思います。近所の年頃の女性は皆、そこに通ったと聞きました。
TVドラマの「カーネーション」のことを重ねたり、最近読んだ金井美恵子の「昔のミセス」(幻戯書房)も同じような時代だったり。女性たちが溌剌と生きていた、ひとつの時代の流れのようなものが、リアルに見えるようでした。
2012/3/4 日曜日 - 6:03 pm by noriko
- 5:55 pm by noriko
おすすめの植物関係の本。
「雑草と楽しむ庭づくり」ひきちガーデンサービス 築地書館
化学肥料や農薬を使わないような方向性の庭関係本はあまり見当たらない。ひきちさんは虫や雑草とうまくやっていこうと実践している庭師さんなので、参考になります。当たり前のように雑草をやっかいもの扱いにするより、グリーンなグランドカバーとして役に立ててられれば、その方がお互いに平和なはず。
「森のリース、森の恵み」横山美恵子 河出書房新社
写真が美しくて刺激される本。乾いた褐色の葉や色づいた実や立ち枯れた花や、忘れ去られて取り残されたように存在する植物の姿に、つい見入ってしまう時がある。みずみずしい緑や花色だけが植物の在り方ではない。自然のなかから材料を集め、その材料との出会いの風景を表現する。
今度、原っぱや河原や林に分け入って、採集してこようっと。
2012/2/25 土曜日 - 2:16 pm by noriko
2012/2/9 木曜日 - 5:04 pm by noriko
私のギターです。名前はCHICA。スペイン語で女の子。
小学生の時、ギタークラブに入ってこれを弾いていました。小学校のクラブにギタークラブとは珍しいと今では思うのですが、指導していた浅野先生の趣味と熱意によって存在していたのだろうと推測されます。
実は昔、父がギターの糸巻き部分を仕事で製作していたことがあります。父のお手伝いとして、その糸巻きの数を数えたり並べたり箱に詰めたりしていました。小さい頃から、ギターのその部分だけはなじみ深いものだったのです。
高学年になったらギタークラブに入ってギター弾くんだと、決めていました。学習発表会の舞台で、ギタークラブは花形でしたから。「禁じられた遊び」とか「人生の並木道」とか弾いていました。懐かしい思い出です。
その後、ギターは押し入れに入ったまま年月は流れ、すっかり忘れ去られていたのですが、「そうだギターがあったんだった」と昨年発掘されました。壊れてしまった糸巻きを取り替え、生き返ったギターを毎日弾いています。教室に通って、発表会にも出ました。ギター少女の復活です。(中身だけですよ)遅れてきた村治佳織とも。(聞き流してください)
- 4:58 pm by noriko
2012/1/24 火曜日 - 4:16 pm by noriko
映画くらい観なくっちゃなあ、と思うのである。それで今その気になっているのは、映像文化ライブラリー。ちょっと気になっていたものとか、もう一回観たいのとかが上映されていて、何度かは足を運んでいるのだけど、ここに来てまじめに通おうかという気分。少し前に、タルコフスキーの「惑星ソラリス」を観に行って、年初はエリック・ロメールの「春のソナタ」。今の時代につくられたものを観るのとは、また違う面白さがある。映画が終わって明るくなると、ここはどこで私はいつの時代の私なのか、何となく迷子のような気分になるのだ。
平日の昼間、時間を作って、上映前の薄明るい館内の椅子に座り込む。周りはなんだかお年寄りばかりなのがこれまた不思議。広島のまちなかのまんなかで、暗闇の中、映画のライブラリートリップってところかな。
- 4:07 pm by noriko
昨年はじめて「ほぼ日手帳」を使ってみた。手帳変遷は人それぞれ物語があると思うけど、私のここ何年かは、サイズ的に文庫本サイズがお気に入りで、無印のものを使用。シンプルでよいのだけど、薄すぎて書き込める量が少ないので、次には同サイズの白紙手帳に日付を自分で書き入れて使用。でもこれは逆に厚みがありすぎ。日付書き入れも、なんとなく雑然としすぎていていまひとつ。それで、ほぼ日のがこのサイズだということがわかり、ついに購入。その存在をなんとなくは知っていたのに、遠い回り道をしていた気分だ。
予定などを書き込む手帳機能と、日記のように文章や絵を気ままに書き綴るには、ちょうどいいかんじ。これ以上大きいと持ち運ぶのに気になるし、小さいと書き込みには不自由。隅っこに書いてある、毎日のちょっと一言も味わえる。ただ手帳に付随したカバーや文具やらがいろいろでているけど、そういうのはノータッチ。無印手帳時代からのマイ手帳カバー(裂織のお手製)を毎年掛けかえて使っている。
昨年末、パルコに糸井重里氏がやってきて、ほぼ日手帳の見て見て大会をやっていた。(正式名称はすみません不明)手帳をこんなふうに使っていまーす、と使用者が糸井氏に見せるのである。熱心なファンたちは、朝早くから予約券をもらい、時間に合わせて列に並び、にこにこ自分の順番を待っている。自分なりに出来上がった手帳を見てもらう晴れがましい舞台なのだ。のこのこと見物に出かけた者とは気合いがちがう。糸井氏に見てもらって言葉をかけてもらって写真撮ってもらって、みんなすごーく嬉しそう。ちょっと興奮した華やいだ空気が流れている。うらやましー、と思ってしまった。わたしの、見てもらうような代物かなあと、つい手帳を鞄から出して手に取ってしまった。まあ、でもこれが私の日常よね。ささやかな。愛すべき。
糸井氏は、「読んでください。書いたものをよくよく読んでください。自分が何を書いたのか。それが大切。」って言っていた。あー、それほぼ日手帳のコンセプトなのね。大きく納得。
- 4:01 pm by noriko
2010/3/3 水曜日 - 3:44 pm by noriko
今現在、利用している図書館は、計6コ。常時、10冊くらいは図書館の本がうちの本棚に並んでいる。こんなにむしゃむしゃと本を読みあさっているのは、人生のうち2度目くらい。本屋で買った本はなかなか読み始めないけど、借りた本は期限があるからとにかく読む。時間があってもなくても期限はやってくるから、とにかく読む。ご飯作りながらとかちょっとした時間も本を手に持っている。おかげでなんだか読む速度が速くなって来た。まあ、じっくりゆっくり時間をかけて読みたいような本はどちらかというと避けて借りてくるので、早く読めるのかもしれないが。うちの家族は二人とも読むのがすごく早くて、ぶあつい本でも短時間で集中して読み切っている。私もそれに近いようになってきた。
図書館の本棚に向かって、アーコレ読もうかなどうしようかな、あこんな本がこんなところに、と頭を巡らしているのはとても楽しい。わたしの心のオアシスと言ってもいい。昔は喫茶店に通ったり、行きつけのお店の人とおしゃべりしたり、プールへ行って泳いだり、気持ちのいい河原に行ったり、そういうことが生活を支えてくれていたのだけれど、その代わりが今は図書館。
子供の学校の図書委員になったので、図書室に出向いて作業をする。古い本のにおいを嗅ぎながら整理整頓をしたり、新刊本の処理をしたり。おかーさんたちが今子供の間で流行っている本の話をしているのが聞こえてきたり。私も小学校では常連の図書委員で、誇らしげに(たぶん)カウンターに座っていたはずだ。今はもうどこもバーコード処理だけど、本のカードや、自分のカードの紙の手触りも懐かしい。そんな時に、タイミングよく、長嶋有の「ぼくは落ち着きがない」(光文社)を読む。高校の図書室の一角で繰り広げられる図書部員たちの話。いいはなしだった。
- 3:39 pm by noriko
その吉田秀和の新聞記事で紹介されていたのがこの本。4分33秒ピアノの前にただ座っておわりのジョン・ケージ、という認識しかなくて、こういう了解の仕方は全然だめね。曲の作り方や音楽的な難しい話はささっと読み飛ばすような読み方しか出来なかったのだけど、どうしてあのような作品をつくるのに至ったのか、ケージはどういう時代の流れのなかにいたのか、どんな人生を送ったのか、というような彼の音楽の背景がよくわかった。ケージの耳、ケージの骰子、ケージの茸、ケージの笑顔。

- 3:37 pm by noriko
朝日新聞で時々読みかけていたのだけど、その時読んだ記事がとても素敵(すてきって、あまり私使わない言葉だけど、あえて使ってみたい)だったので、ちゃんと読んでみようと思って手にした本。もちろん、偉大な音楽評論家であり、文章も魅力的なことは知識としてあったけど、いつか読むかも的な存在だった。
いやあ上手な文章。クラシック音楽のこと知らなくても、ついつい引き込まれてあっと言う間に読み終えてしまった。聞いたことのない曲や指揮者や演奏家のことなのに、言葉が巧みでなんだか充分納得してしまう。音楽のことを語るのにうってつけの言葉使いなんだろうと思う。批評やら評論やらを読んで、こんなふうにしみ込んでくることはあまりない。そんな感覚的な表現で言い切ってしまっていいのかしらんという疑問は、この際全然問題ないやと思いながら、素直に吉田先生の講義を聞きました。クラシック音楽も楽しんでみたいなと思うけど、時間も労力も(お金も)かかりそうね。
- 3:33 pm by noriko
昨年設計させていただいたお茶室(高須の家5)で、初釜を体験しました。そういうものを経験したことの無い身で大丈夫かしらんと緊張しながらでしたが、同席の方々や、優しいご主人の手ほどきで、楽しくお勉強してきました。美味しい食事にお酒にお茶に、目を楽しませるお道具に、なんて楽しいお勉強でしょうか。
お茶室は、お施主の好みをできるだけ実現できるようにつくられたものですが、こうして実際に茶事を執り行う姿を拝見していて、この空間が本当に彼女によくお似合いだと実感しました。お酒やお茶に酔いしれ、午後には陽の光でより明るくなったお茶室で、緊張も解きほぐれてすっかりぽーっとなり、夢見心地でお開きとなりました。贅沢なお正月遊びでした。

2010/1/12 火曜日 - 5:54 pm by noriko
年末に地鎮祭でお世話になった神社に、初詣に行ってみようと決めていた。
とっても感じのいい地鎮祭だったのだ。地鎮祭自体は、どこでも内容はほとんど一緒だけど、その神社、その神主さんによってやっぱり違うものになる。できればその土地を守っている神様にお願いしようと、地鎮祭は最寄りの神社にお願いすることにしている。だから、ちょっとは神社に詳しくなったのだ。
息を弾ませて階段を上りきったお宮は、向こうに元旦の海が眺められる。
お参りするところでおはらいしていただき、甘酒をいただき、おみくじは一人一人手渡し。(凶の場合はおまもりをくれるそうだ)小さな神社だったけどとっても行き届いていた。そして私はおみくじで1番をひき、これはもしかしたらと思いきや、でましたでましたの大吉。気分がいい。単純に素直にいい気分を味わう。大吉はよすぎてよくないとか言うけど、今ここで大吉をひいたということ自体がいいことなのだから、おそれることなくそれを受け取って、この気持ちを大事にしようと思う。そしてこれを読んでいる人にも、お裾分けする気持ちで書いています。受け取ってね。

- 5:45 pm by noriko
大晦日の夜ごはん。ここのところうちにしては贅沢なものを食べる日々が続いていたので、もうなんだか年越しそばだけでもいいかもってかんじだったけど、それでも年末の雰囲気を味わいがてら近所に買い物に出る。
そして出たら出たで、鯛など買ってしまった。お刺身にしてもらうので、夕方また出直さなくてはならない。寒くてちょっと辛いなあと思いながら、日が暮れる前に再び出かけた。
店のおじさんに年末の挨拶をして、鯛をかごに自転車を走らせていると、目の前に大きな満月。日暮れて登場した、大晦日の特上の満月。すごい。
冷たい風を切りながら、満足。これはご褒美だな。
- 5:39 pm by noriko
以前設計したお家の、玄関マットを織りました。ウールです。糸染めもまあまあ思うような色が出たし、クロスの模様もいいかんじにできたので、満足の出来。玄関に小さな小窓があって、ここにつり下げる麻の織物も一緒につくりました。色合いだけ合わせて。
壁が少しだけエンジ色がかったこっくりとしたベージュで、床のナラのフローリングもいい色になってきているので、落ち着いた暖かみのある雰囲気。ばっちり。自画自賛です。

- 5:16 pm by noriko
トウガラシはいつまでその色つやを残すのだろうか。切り上げて、葉を落として、リースのようにしてみました。(そうです。お気づきでしょうが、デジカメ新しく買いました。嬉しくてついつい。)

- 5:09 pm by noriko
色を使って絵を描くと、どうも黄色と紫色を多用してしまう。ついつい使いすぎて、えぐい色合いになってくる。すっきりと使えるようになりたい。これはうまくいった例。
(ホームセンターでもらった徒長していた可哀想なビオラと紅茶の空き缶)

2009/10/6 火曜日 - 11:33 pm by noriko
2年ほど前に竣工したお施主さんの家。ピアノレッスン室をつくり、奥様がピアノ教室を始められた。新しい住宅地には、幼い子供たちも多く住み、少しづつ生徒さんも増え、今回ははじめてのガーデンピアノ発表会。レッスン室の掃き出し窓を外し、庭に椅子を並べ、いつものレッスン室がちょっとしたステージに様代わり。遮るもの無く、高台の前面に建っているので、見晴らしは最高。ステージに立つと、目の前に山々と遠く町並みが望めるはず。小さな子供たちは、まだ片手だけの可愛い演奏や、どきどきしてつい後ろにいてくれる先生を振り返ったり、とても微笑ましい。最後の女の子は、先生とデュオでディズニーの曲を弾いて嬉しそうにしている。雨あがりの気持ちのよい秋晴れのなか、風に吹かれながらピアノの音を楽しむ。こんなふうに小さな発表会の経験を積みながら、やがて大きなステージに立てるように、という先生の締めくくりの言葉もいいなと思う。こんなすてきなガーデン発表会が、子供たちの記憶のどこかに残っていくのは羨ましい。
ピアノ教室の看板をつくらせてもらったり、庭のデザインや植栽も共にさせてもらったので、わたしもピアノ教室の専属のような気がしているのだ。かわいいピアニストたちが、これから音楽を愛する人生を歩めるといいなと思う。
- 11:29 pm by noriko
園子温監督は、豊川市出身。中学の同級生のいとこでした。その同級生の女の子はとってもチャーミングで感受性の強いタイプの女の子。おじいさんのことをグランパって呼んでいた、という記憶があります。園一族は、そのあたりではちょっと知られた存在でした。
大学生の頃、「ぴあ」を隅々まで読んでいた時に、「自転車吐息」という映画で園子温氏が紹介されていて、へー映画監督になったのか、観てみたいなあと(たしかその映画も豊川で撮られていたような)思っていました。そして月日は遠く過ぎ去り今年、「愛のむきだし」が公開されているのを知ってはいたのですが、見逃して残念無念しているところ、続けざまにこの「ちゃんと伝える」。それは主役の話題性で記事になっていたのですが、監督の名前を見てびっくり。そしてロケ地が豊川や豊橋ということで、もうこれは行かねばなりません。
だってタイトルの「ちゃんと伝える」だけで、私には充分響いています。「自転車吐息」というタイトルからずっと、なにかが私のなかで響いているのです。
そしていきなりの冒頭映像は、あの角。何度となく通っているあの角の風景。おきつねさんのはりぼてや昔ながらの看板が壁に張り付いている、もう何年も変わりないのあの街角。それからは、もうあそこもここも状態。それは映画の中のことでなく、現実的なわたしの故郷。ストーリーはあらかじめだいたいわかっていたし、何を監督が描きたいかというコメントも読んでいたし。淡々とストーリーを追い、時に涙し、どうやって「ちゃんと伝える」のかを確認するような思いで、ラストまで。
時間経過をそのまま流さずに、毎日繰り返される日常のひとときを何度も何度も繰り返したり、もう一度もどって同じシーンが入って来たり、大きく時間がもどって過去が映し出されたり、音楽の楽譜みたいに奏でられる。(全く同じシーンを映画の中で繰り返し観たのは初めて。それで、最初に観たのと2回目に観たのと、言葉や表情が全然違うものに感じたのも初めて。素直に、あー映画は監督のものだと思った。)いつもはもっと激しい映画を撮るらしい人の、やっぱりどこか力づくの話の展開もあり、蝉の脱け殻や、鳥の屍骸にカメラが静止して、象徴的な詩人のようなシーンもある。
そういうことすべてが、起承転結的な悲しさや辛さでなく、時間の中に挟まってしまった、ひたひたとした断続的な、ある意味日常的な、人の死の寂しさ、というものを描いていたと思う。わーっと泣いて終わりなのではなく、毎日のなかに死は、生と共に存在している。
落ち着いて考えてみて、そうたどり着きました。
実は、映画を見終わって立ち上がったら、ぐーっとこみあげてくるものがあり、薄暗い映画館のロビーを歩いても、白々と明るいショッピングモールを抜けても(映画館はその施設の最上階)収まらない。ヘルメットをかぶりバイクを走らせて、だーだーとえっえっと涙を流しながら帰る。30分くらい、なんで泣いているのかわからない子供になってしまったように泣いていたのが、どうしてなのか。
あまりにも近すぎて、なにか同化してしまったのかもしれない。すごく気持ちは近しいものだけど、遠くにある、いまここにないもの。離れた故郷は、どこか死に似ているのかもしれない。違う場所が舞台だったらこんなにならなかったよね。でもね、言葉は三河弁じゃなかったの。だからよかった。
2009/9/14 月曜日 - 9:04 am by noriko
・若かりし糸井重里が司会をしていた「YOU」。
清志郎とチャボが出演して、自分たちのライブビデオを見ているというまったりとした企画。ギターを抱えてぽろぽろと音を出しながら、全く気持ちの在処の見えない、素の清志郎がよかった。
・井上陽水のデビュー40周年、4回シリーズ。
陽水、おもしろーい。小学生の頃、傘がないや夢の中へや青空ひとりきりや、歌ってました。テレビなんかに出ないし、レコード買うお金もないし、ラジオ聞いたり、雑誌の歌詞カード見ながら。ここにも出て来た清志郎や、リリーフランキーとの語りも面白かった。やっぱり40年も人気者であり続けるということは、そういう魅力が枯れることなく、こんこんと溢れるようにあり続ける人なのだ。
・あべ一座の「あべ上がりの夜空に」
宮藤官九郎構成、演出の歌謡バラエティショウ。全国から「あべ」さんを一般公募し出演者を選抜。芸能人もすべて「あべ」さん。阿部寛やあべ静江、そしてもちろん阿部サダヲ。いちばん美味しかったのは、NHKアナウンサーの阿部さんでしょう。NHKホール紅白歌合戦の冒頭、客席からアナウンスするあの人。
内容は、「あべ」へのひっかけがこれでもかと続くので、疲れてくるのであるが、さすがクドカン、めげずにそのばかばかしさでひっぱっていく。あそこまでやりきらないと、芸として成立しないのである。舞台は阿部サダヲのものだったけど、フィナーレはなんだか満足度があった。名前が同じなだけで、なんか親近感や愛情がわくし、連帯感が生まれて、平和な空気になるのだ。人間てそういうものだって思う。
・佐野元春のザソングライターズ、ゲスト矢野顕子。
いつも笑って話をけむに巻く矢野さんが、真摯に答えていた。ホームという言葉について。自分の場所、自分の帰るところ、それは家族ということではなく、自分自身なのであり、それこそは矢野顕子の伝えたいことの核心なのだというくだりは、おおと思いましたね。かつて佐野さんと矢野さんの「自転車でおいでよ」にやられたからねえ。嬉しかったです。
・同じく矢野顕子と上原ひろみの、スタジオライブ
上原ひろみ、初めて見ました。かわいいのに、すごいパワー炸裂ってかんじでした。ふたりとも楽しそうで、ミュージシャンの仲良しコンビっていいなあとうらやましい。
・爆笑問題のニッポンの教養、東京藝術大学と坂本龍一の回
爆笑問題の話法というか、つっこみどころはまあさておき、藝大生や藝大の先生たちを垣間見ることができました。教授も、あいかわらず教授だった。藝術について思いを巡らすこと、世の人々はもっとしてもよいのでは。
2009/8/21 金曜日 - 5:16 pm by noriko
里帰りの途中に名古屋近郊にある「はるひ美術館」に寄る。ひびのこづえの展覧会「キタイギタイ」。舞台の衣装や、雑誌掲載の写真や、彼女の作品を時折見かけては、ファッションデザイナーではなく、コスチューム・アーティストとして活動していることに興味があったし。
未だバブリーな装いの名古屋駅からJRで15分くらい走ると春日町で、のどかな畑が広がり、収穫時に取り残されたかぼちゃやらキューリが道端に転がっていたりする。古い民家の残る小道をこの道でいいのかしらんと歩いていると、この展覧会のためのかわいい絵柄の案内ポスターがそこここに貼ってある。美術館はこちらという矢印。真夏の炎天下、蝉の声を聞きながら人影のない知らない町を歩くこと20分。
小さな美術館に、ぎっしりと「生きもののかたち 服のかたち」が詰まっていた。
いろんなものがすべて、彼女を通ると、なにかしらのコスチュームとなって生まれてくるのだ。展示されていたものは、虫やら動物やらを題材にしたものが多かったのだが、彼女は世の中のすべてのものを、人間のからだにまといつくものとしてのコスチュームとして、創りだすことができるのだと思う。
スケッチ、楽しそうだったもの。イモムシ?イモムシはこうでこうでこうでしょ。カエルの卵?だったらそれはこうなるのよね、って。
作品のあまり布や解体したパーツを、コラージュしたり刺繍したり手芸して、バッグやおさいふやのオリジナルグッズを作って販売するショップもあって、つい嬉しくなってバッグを購入。
こういう細々とつくりこんでいって世界が現われてくるの、好きだなあ。
- 5:13 pm by noriko
知り合いが、鈴峯女子短期大学のオープンカレッジの講師をしていて、春夏講座全5回、参加しました。講座名は「楽しいアート」。スタンプをつくったり、絵本をつくったり、照明器具をつくったり、鳥のおきものをつくったりと、なかなか中身の濃い講座。時間内に完成は難しく、いつも宿題状態でした。日々の生活とは関係のない、ただつくりあげることに熱中する時間は楽しいものでした。
でも。なんだか全然昔と変わってないのよね。表現の技術の進歩が無い。デッサンにしても、画面の構成にしても、なんかなあ、昔と一緒じゃん、って思ってしまった。もちろん、技術的な訓練をしていないからあたりまえのことです。とまったままで当然です。逆に後退しているくらい。
もし、なにか続けて技を磨いていたら、この歳になって少しは納得のいく表現もできていたかもしれないのに。そういう年月を、何もせずに置いてきてしまったと、ちょっと寂しいような気がしました。
なお、秋冬の同講座は、10月から開講されるそうです。
2009/8/11 火曜日 - 8:31 pm by noriko
やらねばと思いながらなかなか手を付けられなくて、季節が何度も見送られ、この7月のはじめなんとか実行した、鉢植え観葉植物たちの植え替え。充分な数の植え替え用鉢を用意できず、あるだけで帳尻を合わせようと、あれをこっちに、これをふたつにわけてそっちにと、もう考えるだけで面倒で、本当に怠惰な世話人でごめんなさい。でも始めたら、なんとかみんなそれぞれ収まって、半日仕事でおしまい。それで夏の暑さも今年は遠慮がちなので、うまく生き延びる事ができるかなあと思っていたのが、数日前から元気に新芽が登場した。嬉しいなあ。植物は、新しいものを手に入れた時は新鮮だし美しいし可愛いけど、時間が経って、剪定したり植え替えたり処分したりの段階になると、なかなか一筋縄ではいかなくなる。でもまあなんとか付き合っていくうちに情が育まれ、同居人のような関係になる。ただし生かすも殺すも私次第。今回はとりあえず元気になったようで、よかった。
2009/7/31 金曜日 - 6:05 pm by noriko
夏だっ!という空気感がまだないので、勢いに欠けながらも、オキナワ行って参りました。いろんな沖縄の顔があると思うのですが、今回は、伊平屋島での日食と近藤等則、というのがメインイベント。メロディアスなトランペットと、太陽と月の天体ショウを味わってきました。今、目を閉じていろいろと思い出すなか、ずっとやさしく吹き続ける風、オキナワの風、忘れられません。湿気を帯びたまとわりついてくるような風、苦手な人もいるでしょうが、私はOKでした。砂浜にて、ごろりと朝まで寝てしまいました。
2009/7/15 水曜日 - 2:41 pm by noriko
携帯電話3代目となりました。なにせそういうはやりものツールにはめっぽう弱く、携帯電話も電話機能しか使わず、その電話にすらあまり出ない。というか気がつかない。というか気が回っていない。だから、買い替えにも行かず、1台目さんざん使い倒し、2台目もついには故障するまで使うことに。1台目は、Kのすすめられるままに従い、2台目は誰やらがデザインしたオレンジボタンの、バーのタイプ(?)。これはなかなか気にいっていた。ぱこっと開けて携帯電話いじってるしぐさがなんか嫌いだったのよね。でも3台目はぱこっと開けるタイプになった。仕方ない、なかったのよねいいのが。でも焦げ茶色で小さくてゴムがついていて(これはちょっと新鮮)、あまり主張していないデザイン。まるでこしあんのような風貌。水ようかんとか赤福餅とか、そういうかんじ。末永くよろしくこしあん。
2009/7/11 土曜日 - 10:53 am by noriko
眠たい月曜日が吹っ飛んでしまった。
AERAに野田秀樹と大竹しのぶの対談が載っていて、この二人今はどうなのかと、週刊誌的な興味で読み始めた。お互いの才能は認めるところであり、一緒に仕事はするのだという話、最後の方の友情よねっていうやりとりなんかに、なんとなく二人の思い合うような空気が感じられてちょっとせつないような…
そしてそのお芝居、ザ・ダイバー。だれが出るのと見てみれば、きゃーいっけいくんじゃない。この圧倒的な二人と、この演目で、あと二人の共演者のうちのひとりがいっけいくん。
目がここで覚めました。いっけいくんとは、渡辺いっけい氏。高校の同級生です。ただの同級生ではない様々な顛末はありましたがそれはさておき、なんだかいてもたってもいられないかんじ。彼は、幾度か野田さんの舞台も出ているし、(観に行ったこともあるし)、舞台でもTVでも活躍しているようだし(それらはあまり見ていない)、なんとかやってるんだろうなあ、とは思っていましたが、こういうかたちで目に飛び込んでくるとびっくりする。年齢的にも、今そういう野田さんの舞台にでることってすごいことなんじゃないかって。
彼は昔、まだこれからどうなるかわからない人生の途中にありながら、自身の成功について私が嫉妬するんじゃないか、と思わず口走った事がある。そんなことない!と首を振ったけど、そうねえ、やっぱり少しだけ嫉妬はしているかもしれない。だって、同じスタートラインにたって、世の中へ飛び出していくエールを送り合った仲だものねえ。
そういう気持ちを隠さないにしても、やっぱり感無量なできごとでした。
観に行きたいなあ。チケットとれないだろうけど…
- 10:51 am by noriko
声は、姿かたちよりも、存在感を強く訴える。その人をより感じることができるのは、声のような気がする。存在を認識するどこか脳の箇所に、聴覚はダイレクトにつながっているのだろうか。
ラジオを食い入るように聞いてしまうのもそのせいかしら。
NHKFMでこの春から始まった佐野元春の番組。もちろん、かつてサウンドストリートを聞いていたかつての若者は、懐かしくて仕方ないはず。歳をとっても全然かわらない元春トーク。
あの頃、親しい友人や親元を離れて始まった大学生生活の中で、真新しいラジカセから聞こえてきた彼の声は、忘れられない私の人生の一部だ。気恥ずかしいようなしゃべり方だけど、それがひとつのパーソナリティとして確立されていることに、そうかそれでいいんだという気持ちがした。目を閉じて聞いていると、ふとあの頃に自分がスリップしていってしまいそうになる。まわりはすべて何もかも変わってしまったけど、かわらない私の中の記憶。
それにもうひとつ。その同じ時間帯の月1で大貫妙子の番組が入れ替わりにオンエアされている。彼女も声も、特別なかんじ。おしゃべりしている内容も好きだけど、ただ声を聞いているだけで、なにか染み入るようなものを感じ取る。耳を澄ましてじっと聞いている。
好みの容姿っていうのはあまりないけど、好みの声ってあるなあ。